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おざわやの代表のブログです

揚輝荘 春の文化祭

2016.04.15

9日は、千種区の日泰寺に隣接する揚輝荘(ようきそう)へ。

お友達が出演するということで「揚輝荘 春の文化祭」というイベントに参加しました。

実はこの日泰寺界隈は修業していた20年近くもの間、通っていた馴染みの街。この日もその参道では「覚王山春祭」というイベントに沢山の人出がありましたが、揚輝荘が公開されている日は参道もイベントが行われる為に入った事がなく(ふだんでも水曜日と土曜日には事前申し込みすれば案内していただけるそうです)、今回初めて入らせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

お友達が出演したのはステージで行なわれる雅楽と巫女舞。

みなそれぞれにお仕事がある方たちなのですが、日本古来からの文化を後世に伝えようと日頃活動している素敵な仲間たちです。特に巫女舞をされているA嬢は巫女舞はあちこちの神社へ指導に行くほどなのをはじめ、お茶に着付けや剣舞まで。そして弓道については私も指導していただいています。街中とは思えない楠の大木の元に響く雅楽の音色は、万葉の人々のゆったりとした生活を想像させてくれました。

 

 

ここ揚輝荘は大丸松坂屋の初代社長、伊藤祐民(すけたみ)によって造られた別荘で、その当時35.000平米もあったという敷地は現在では9.000平米余りに減ってしまいましたが、名古屋の街中にこんな素敵な空間を未だ残しています。その中に建っている徳川家から譲り受けたという家屋を改装した建物「伴華楼(市指定有形文化財)」の名前は「バンガロー」をもじって付けたと言われていますが、いたずら好きだったという伊藤祐民の性格を表しているのでしょうか。ここ揚輝荘は名古屋を訪れた政財界人や文化人の交流のため、そして外国留学生の宿舎として広く使われたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地元名古屋の発展に寄与したのはもちろんのこと、関東大震災では被災した松坂屋上野店の従業員に3か月分の給料を前払いしつつ一般の被災者にも生活必需品を配布するなど、まさに「三方良し」を地で生きた伊藤祐民。その晩年は自ら決めた55才定年を守って一切の公職から身を引き、社会貢献活動を行なうとともにインドやビルマに仏教遺跡巡拝の旅に出かけ、その講演活動に勤しんだそうです。

「はたらく」ということの意味をまたひとつ、教わったような気がしました。