おざわやの代表のブログです
2023.06.09
一昨日のブログでは《宿命と使命》という言葉について深掘りしてみましたが、輪廻の中で誰もが知らず選んできた命を生きていると考えると、より今世が尊いものと感じる気がしました。それなら《運命》はどうでしょうか?
「運命的な出会い」とか「私の人生はいつも失敗ばかりの運命なんだ」なんて、変えようのないことに対する悲哀的なイメージの言葉として使われることが多いように感じます。そして同じように使われる言葉として《セレンディピティ》がありますが、こちらは偶然に出会ったように思えることが実は必然だったと感じるような出来事のことで、総じてプラス思考な使われ方をしますよね。
いただいた命をどう運ぶかは自分次第
でも《宿命》を選んで生まれてきたとして、その宿命をどう使って生きるかが《使命》ならば、そんな命をどう運ぶかが《運命》。
宿命や使命を感じつつ命をどう運ぶかは自分次第だから、それによって《運命》がどう定まっていくかも自分次第とも考えられないでしょうか。それならば「コレ!」と運命を自分勝手にに決めることはできないとしても、生き方次第で運命だってプラスにもマイナスにも変わっていく気がします。
そんな命ですが、仏教では死は「無」になるのではなく「有る」ものとして扱います。
この世に生まれた命は病や老いに苦しみながらいずれ死んでいくけれど、それは消滅ではなく「死有(しう)」として捉えて、七日ずつの中陰を経て四十九日の満中陰(まんちゅういん)を迎えることで、「中有(ちゅうう」という状態になります。そして次の人生までの間一度浄土に戻り、やがてまた次の命を選んで「托胎(たくたい=受胎)」してこの世に戻ることで再び「生有(しょうう)」となります。
終わることなく繋ぐ輪のような輪廻の流れは、横から見れば螺旋であるべきものです
《宿命》を選んで生まれ、老いや病を味わいつつ《使命》を生きて命を運ぶことで、人生の中での《運命》が決まります。そうして初めて、その人生の中で果たすべき《天命》が見えてくるんじゃないでしょうか。それなのに運命を悲観してばかりでは天命なんて見えてこないし、果たすべき命もそのままに結局成長もなく「中有」となって、また同じような宿命に生まれるとしたらどうでしょう?
この世で受けた命を無駄にせず運び、天命を果たして来世ではさらに大きな運命を生きる。それならばただ死を恐れるよりも、生きている間に何も成さないことを恐れるような心持ちで生きられるし、来世を楽しみに待てるんじゃないでしょうか。
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電話番号 : 052-734-8102
営業日:月曜日~土曜日(日曜定休)
営業時間:朝9時から夕方5時まで
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