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おざわやの代表のブログです

敬意や畏敬は、敬称に込めるんじゃなく言葉に心を籠めようと思った。

2019.09.05

昨日までの2日間のエクスマ塾の合宿でニックネームが付きました。ビルです笑。でももちろん塾内での呼び名で、一般的には通用しませんのでどうかお気になさらずに笑笑



この塾の中では先輩も後輩もなく、年齢・性別やそれこそ先生とだって「さん」や「先生」など敬称を付けずにニックネームで呼び合います。藤村先生のことは「スコット」。その他のサポート講師たちだって「ハッピー」「ヴィーノ」「ゆかりん」のように敬称を付けずに呼び合うことでフラットに気を使わず一緒に学ぼうというのがその理由です。

と言われても礼節や上下関係の中で生きてきたバリバリのザ日本人なんで、なかなか難しいでしょ!って思ってました。









合宿1日目の昼の講義が終わって夕食のとき。たまたまスコット(藤村先生)の前に座らせてもらって、特にニックネームがないので付けてください!とお願いすると「ジャズ好きなの?ビル・エヴァンスが好き?じゃ、ビルにしよう」と言われて(一部お○○ちゃんという意見もありましたが)、嬉しいやらこっ恥ずかしいやらでした。そしてそれをSNSで報告すると塾と関係のない他の人からもビル、ビルと言われて更に恥ずかしくて。でも翌日の講義になると自然と「スコットおはようございます!」と言えてる自分がいました。





敬称つけたら敬語、じゃなくもっと心を込めたほうが良い

そこで気が付いたのは敬称を付けて呼ぶと、ただそれだけで敬意を込めた言葉になるという「カタチ」だけを考えていたんじゃないだろうかってこと。敬称をつけられない事で逆に言葉に敬意を込めようとするので、より言葉を選ぶし感情も籠もった言葉になる。何も考えずに「形式張った言葉」をいつも使ってしまっているんだって気付いたんです。

日本語の素晴らしさはひとつひとつの音や言葉にも意味があるってことですが、それは「この言葉使ったから敬語でしょ!」ってことじゃなく、ひとつひとつにキチンと想いを籠めるってことだと思います。改めてそんなことにも気付かせてもらった2日間を過ごして今日はアタマも身体もフラフラ。疲労困憊してますが、そんな教えまでいただける師匠に付けたこと本当に感謝してます。





お釈迦さまは「宗教者」ではなく「求道者」。ずっと前を歩いて「ついておいで」って迎えてくれてます

そんな教えを受けて思い出したのはお釈迦さまのこと。お釈迦さまは無くなる寸前にお弟子さんたちに「私が死んでもその後のことにはお前たちは関わらないでいいよ。そんなことよりも弛まず修行して、私の覚った真理の教えやお前たち自らをともし火として、この世を照らしていっておくれ。」と言い残したそうです。私がトップだから言うとおりにしろ!ではなく、みんな「覚りの道を共に歩く仲間」として最後まで教えを説き続けたのがお釈迦さまです。

つまり誰もが皆同じようにフラットな関係で、それはお弟子さんだけじゃなく お金の有る無しになんて全く関わらず 、それこそ一般の人も王様も分け隔てなく教え続けた方でした。


ついでに言えば肉を食べちゃダメとか結婚したらダメなんて教えもしていません。ただ自分の為に殺生したらダメというだけで、托鉢して出された肉なども黙って食べていたそうです。だいたいお釈迦さま出家する前は結婚して子供もいたぐらいですからね。ただ不邪淫といって「淫ら(みだら)な行い」は慎みなさいと言っておられます。

物事は本質を忘れてしまうとおかしな方向に行ってしまいがちですねー。





ちょっとブログの方向性が変わりますがご心配なく

塾の中で主に学ぶのはSNSを使った発信について。自分を知って興味を持ってもらうことで、商品や仕事を知ってもらうのが強みになるというエクスマ思考です。その中でボクの今までの発信の良いところ悪いところをグループディスカッションで指摘してもらって、「もう少し【伝え方】を工夫したほうがええね!」とはサポート講師のハッピーから。なのでこれまでブログに書いてきたような内容はフェイスブックに、そしてこのブログはもう少し「石材店」として大事にしていることや仕事の内容を書いていきたいと思っています。


決して「ヘンな宗教に引っかかった」ワケではありませんのでどうかご心配なく笑笑